備忘録【7】:アパレル業界に入るまでの話(その1)
わたしがアパレル業界に入ったのは当時苦学生だったからです。そんなわたしが、なぜ、その対極にある”華やかな”アパレル業界へ入ったのか、また、いまだに学生気分が抜けないまま、なぜ、30年以上もこの世界にいたのでしょうか? 自分でもよく理解していませんが、わたしの中の潜在意識がそう仕向けたのでしょう。
今回は記憶を揺り起こしながら、この業界に入るきっかけを振り返ろうと思います。
1990年、わたしは生田にある全日制の大学に入学しました。その1前半前、家族が品川からつくば市に引っ越したことで、出戻りの上京をすることになりました。そのさい、両親は自分たちの学生時代(30年代)になぞらえて、わたしが新聞配達などの住み込みのバイトをすることを望んでいました。そのため仕送りなどはありません。初年度の学費と引越し代は払ってくれましたが、2年目以降は学費も自分でやってみろって感じです。
さすがに住み込みの生活は回避しましたが、収入的に厳しいことが予想されたので、豪徳寺の住宅街にある4万円ちょっとの風呂無しアパートに住むことになりました。世田谷区だったけど、かぐや姫の「神田川」状態です。
大学受験をしたのは、時代の流れとか、たまたま進学校に通っていたからです。高校時代は将来も考えずに生活していましたから、その高校で大学を目指さない選択肢は思いつくはずがありません。
受験戦争をくぐり抜け、無事に大学に合格したのですが、そこから先の意欲が湧きません。それは、大学に受かることが、わたしの中の(学力社会への)アンチテーゼであったり、バブル絶頂期の華やかなキャンパスライフを目前に苦学生になれという両親への反抗心が無気力というカタチで湧いて出てきたのです。
このキャンパスライフへの後ろ向きな気持ちは、自分の心の声と違う、他人(両親)の望む人生を進んでいたからでした。
とはいえ、結局のところ自分が選択した道なんですけどね・・・それは、少しあとで実感させられます。
わたしは大学に行きながら生活費を稼ぐべくフロムエー(求人雑誌)を買っては応募を繰り返し、中華料理やの皿洗いや、引越し、アンケートのバイトに予備校の雑務、家庭教師や喫茶店のホールなどなど、たくさんの仕事に手を出していました。
ひとつの仕事に落ち着かなかったのは、学業とアルバイトの時間が合わなかったからです。全日制の理系は文系に比べて拘束時間が長くって、大学の場所も山の上にあり、その周囲は田園風景で何もありません。バイト先に向かうだけでも時間を費やし、学業とアルバイトを両立するのに全く適していない環境にあったと言えます。
そんなとき、金額的にも時間的にも理想的なアルバイトが見つかりました。それは、成城学園にある塾講師のアルバイトです。面接を終え、仕事も決まりました。そして、「あなたの出勤する日程はこの日です」って半年先までビッシリ詰まったスケジュールを見せられたとき、わたしは責任という重圧にビビってしまいました。
結局、大人の覚悟が出来ておらず、このアルバイトを蹴ってしまいました。
つまり、何を言おうとも、この状況はわたし自身が選択していたワケです。
大学とバイト先と寝に帰る家との生活を続けていくうちに、ついに、自分でも一体何をやっているのか、わからなくなりました。学部も受かるのが目的だったから、農学部です。これは、わたしの生い立ちやライフスタイル、好きなコトとは無縁ですし、この学部で将来の計画もイメージできません。
もう心から煮詰まってしまて、ここで自分を見つめ直すわけです。
「一体、わたしが本当に好きなことは何か?」
特に夢など思いつきませんでしたが、ひとつだけ飽きずに好きでいるコトがあります。
それは洋服です。
まずは、目の前の本当に好きと思えることに邁進しようと決意するのでした。
振り返ってみたら、当時も似たような悩み、自分の好きな方向を模索していたんだと思います。現在のわたしの思考回路を紐解く意味でも、ちょいちょい自身の回顧録として、思い出を書き綴ろうと思ってます。おそらく、読んでいる人はわずかでしょうから・・・まぁいいでしょう。